籠の中のジョニー

若輩者のプロフィールのような文章

モノの話

休みが長いと昔のことを思い出す。

自分の生い立ちを振り返ることで今後のことを考える材料にしようと頭ではしているのだろう。

幼少期何をして過ごしていたのか、何をしている時が好きだったのか、親からはどんなことを言われてきたかを思い出す。

 

指して裕福ではなかったが、心が寂しくならないようにかCDやビデオを買ったり撮り溜めたりして、リビングや親の部屋にコレクションとでも言うようなものは溜まっていた。

しかし自分自身これらを自分で集めたことがなく、確かに漫画やゲームは自分と兄で集めたものはあるが、好きなアーティストのCDやDVDを一人暮らししている部屋には一枚もない。

漫画やゲームも売ったり処分したりで何も残っていない。今残っているのは好きだったアーティストの曲やDVDの映像、観ていたテレビや読んでた漫画の記憶だけである。

自分の親や姉は時間が経っても好きでいられる、もしくは形として取って置きたくなるモノを選んで買ったり貰ったりしていて、今思うと生きるのが上手い証の一つだと思う。嫌になって手放すモノが多ければ多いほど、全部ではないが過去の自分を否定することでもある。

 

あるモノを手放すことが経験といえばそれまでだが、モノとして残ること以上に小さい頃からやってきたことへの肯定は、自分自身より他人からの評価によって何倍にも価値は上がる。自分自身で肯定するとは訳が違う、昔の自分を他人が認めてくれることへの幸福感はまた違うだろう。

 

ここ数年はミニマリズムとでも言うように、所有することへの維持コストや時間的コストを考え、それに見合うだけの価値があるかと合理的に考えていた。それ自体が自分のためになるかを自分では合理的だと思っていたが、いろんなことに対して見境なく否定し、長期的な幸福に対して見通しがついてなかったかもしれない。

所有物には自分自身のその時の感情を思い出すきっかけを与える。感情を思い出すことは人生を見直すきっかけになり得る。いまではサブスクリプトなるサービスやレンタルで趣味を満たすことができるが、それとは比にならないくらいのきっかけをくれるのが、アナログなモノなのではないかと思う。写真を残してこなかったことも悔やまれる。

 

何ヶ月も暇な時間をスマホとパソコンのみで過ごすことができる人間であることに、少し恥ずかしいと感じる自分だから、今後は写真でも趣味のものでも残しておこうと思う。