籠の中のジョニー

若輩者のプロフィールのような文章

恋が難しい話2

ここ最近仕事が忙しいのもあるが好きだったラジオやバラエティ番組、などのエンタメに全く興味が持てなくなった。それ自体が面白く無くなったわけではなくおそらく私自身の問題だと思う。恋は盲目ではないけれども楽しいと思うことや落ち着く行動が変わった。自分自身で体験したことに対して幸福感を得るようになったと思う。

今までの他人がした成功体験やエピソードを吸収することに幸福感を持っていた期間が長く続いていたんだと思う。そこから仕事での立場や自分自身の成長などがリンクして自分自身の体験、いわゆるインプットからアウトプットに価値を見出すようになった。

それもこれも知らず知らずに恋愛感情をくすぐる人が現れたことに付随する。その人との関係をできるだけ細かく、慎重に書きたい。

 

その人とは今年の2月に会社に入社して出会い、人数の少ない会社の中で私が教育係のような立場になった。直属の後輩ができるのは初めてであり、会社の周りの人も若い人がいない分半分友達のような接し方をしていた。

その人が入社して2ヶ月が経ったところで上司からその人について話すことがあり、上司からは「もっとこうして欲しい」というような話を聞くことが多くなった時に、私自身の入社当時のことを思い出し親近感からその人のことをそれまで以上に気にかけることになった。

上司からのその人に対しての相談のようなことを聞くたびに、私は上司とその人の間を取り持つように、その人を休日に呼び出した。

私としても休日に仕事仲間と会うことはほとんどなかった。どこか「休日まで私といたいなんて思わないだろう」と思ってしまう自分自身を「人間関係を良くするため」と誘った。その時の心情として前述の感情半分、もう半分は私自身の女性との交友関係を広げるための練習だと思って誘った。

その人は多分私との軽い雑談だと思って私の誘いを受けた。そこでした会話は今思っても不自然な会話であったと思う。上司にもその人にも気を遣った回りくどい口調で、かつ私自身もうるさい同僚だと思われないように配慮に配慮を重ねた会話だったと思う。

ただその時の会話は最近の私の中で楽しかった時間としてとてもよく覚えている。その人狭いコミュニティでの立ち振る舞いに困っていたことや、私が見ていないところでの他の人との人間関係で思ったことを話してくれて、これをきっかけに長い時間話すことが多くなった。

 

失礼だが女性と話すリハビリも兼ねてその人と話すようになったが、私自身のその人に惹かれていくのがわかると同時に、難しい距離感を感じるようになった。

基本的には会社の先輩の私の誘いを断る理由もないから誘いに応じているのではないか、混み合った話まで聞かれたくはないのではないかといういわゆるハラスメントな部分の心配をしてしまうが故に派手な行動ができないジレンマがあった。

そんなことは太古の昔から悩まれている社内恋愛の定説ではあるが、当事者の心理としては難しいの一言である。この先の仕事のしにくさや、同僚からの配慮などが私の心には痛く刺さる。

ただこのままでは何も進展しないと思い行動するが、ビビリの私にはその人をご飯に誘ってある程度話しては、このストレスのない会話に幸福感を感じては何も進展せずに解散するを繰り返す日々が続く。

恋が難しい話


久しぶりに付き合いたいと思う人ができた。

その子のことをたくさん知ってるわけではないし、好みの女性というわけではないけど、価値観が合いそうだと思う人だ。

価値観が合う人と一緒になることがすごく楽に寂しさを埋め合わせるのではないかと思うようになった。箇条書きにするとすごくわかりやすくなるのではないかと思うが、そう言った理由を本人に伝えることは話は別である。

価値観といえどもたくさん項目があって、あげるとキリがないし、全てをクリアする人はいないと思う。それにピッタシ自分の要望に応えられる人が存在するのも気持ち悪いと感じる。ただ合うに越したことはない。

 


価値観の中の項目として大きく分けて4つある。一つは金銭感覚。何にお金をかけるかが理解できないと一緒にいても落ち着かない。私自身基本お金を使うことに幸せを感じるのではなく、お金を守ることに幸せを感じる方で節約できることに関してはかなり敏感だと思う。ただ見栄を張ることは沢山ある。人に使うお金に対して多少は使う傾向にある。

 


2つ目は体力にある。体力というかスタミナというか、どれだけ1日もしくは長期にわたって人と過ごすことができるかというだろうか、私の中ではスイッチを入れた状態で入れる時間に当たると思っている。

これに関して、私自身はこの時間が短いと思う。この時間がなるべく近い人がいいと思う。一緒に作業する時、一緒に旅行する時などすこし気合を入れなければならない時間で、私が電池切れな状態になってガッカリされるのは格好がつかない。

こんな考え自体が格好悪いが25年生きてきて自分を悪く見せないような処世術のようなものだから仕方がない。

 


3つ目は善悪の価値観にある。

私自身はとても慎重派であると思うので、悪だと思う部分が多いと思う。ただ許容性が少ないのはとても人として残念だと思うので、私自身はしない決めていることでも、他人には多様性を認めていることが大人だと思っている。しかし交際相手などの身内に関しては、私自身の善悪の価値観を全てとは言わないものの共有しておきたいとは思う。私自身であり、私も相手の印象の一部を担う思うからである。

 


4つ目は他者への想像力。

3つの価値観を司るとも思えるこの俯瞰的に観た発想から来る行動が出来る人が1番に理想とも言える人物だと思う。これに関しては、私自身と同じレベルと言うよりか、完全に秀でているだけ魅力を感じる。この能力を持っている人こそ頭がいい人と思えるし尊敬する。

ただこれに関しても私自身が判断できる範疇の俯瞰的な見方に付随するものとも考えられるので、私自身に想像力がないとその能力も見定めることができないため、結局のところ同じレベルでの価値観という話になる。

しかし単純に考えても、他人に対して優しく思いやりがあるかを考えて行動できる人には尊敬の念が絶えない。私が人としていちばん大切にしている点である。

 

難しいことをつらつらと書いてきたが、すべての条件を満たす方に出会うのは無理だろう。

そしてそれを満たせるのは自分自身しかいないし、それなら2人で過ごす意味がない。

まずは後先考えずに親密になるように努めることをしていきたい。

親の話

親は嫌いじゃないけど、両親のようになりたくない。

自分が親からされてきたことをざっと振り返ってみて、何もしてもらわなかったとは思はないけど、これといって養われたということしか実感はない。

 

何か教育として教えてもらったり導いてくれたりはもちろんないし、大学に進学することも金銭的理由から一度は拒否されたことはかなり鮮明に覚えている。

中学、高校、大学と進むにつれて親には自立を意識させられたのかあまり良い親からの待遇を受けていない。

他人と比べるとどうしても子供に興味がない親に思えてしまったり、親を頼って何かをしてもらうことに引け目を感じてしまうようになった。

今親元を離れ一人暮らしをしているのは、そんな親への反発かもしれない。

 

思えば反抗期もなかったかと思う。反抗することも面倒なくらい家族というコミュニティの変化を嫌った。親の言うことをなんでも鵜呑みにして生活していたが、今思えば自分が当事者になったときにはとらない行動を親はしていた。

具体的には細かすぎて言いたくはないが、子供に対してやりたくないことはやらずに、一人の人間として趣味や仕事に目がいっていたのだと思う。子育てはある程度終わって自分自身で生きていけると踏んでいたのだろう。

 

生きていく上で親から教わったことと言えば、やっちゃいけないことを躾として染み込ませたことだけだと思う。親からやれと言われたのは家事や自分の部屋の掃除くらいだった。

 

よく芸能人が子供の教育に対し、「自分でやりたいことを見つけて欲しい」なんて言うと思うが、自己肯定感の低い自分なんかから言わせると自分からやりたいことを探すのは難しい。

学生時代は期限があって、他人ともある程度横並びで進んでいくこともあって、決断のタイミングがハッキリとしている。そのタイミングでどちらが良いかを選択することが今やるべきことを考えるとも言える。

自分自身が親になった時は自由だけではなくある程度の知識を与える存在になりたい。ほっとくことは一概には言えないが、情報量という点では良い対応ではないと思う。

自立とのバランスを考えて教育を考えていこうと思う。少なくとも自分の親には有力な情報を貰えなかった。

 

何が子供にとって良い親か、25歳で社会に出て数年たった今、漠然とではあるが自分なりの答えが出てきたように思える。それは時代によって変わるとは思うが、自分が子供だった時代の中でも最善の親子関係だったとは思えない。

互いにリスペクトし合う関係である必要はないが、頼れる関係にあることが今思う親としての最善の親子関係かと思う。

怒った話

自分自身はなかなか怒らない人間だと思っている。そんな自分でも今はすごく怒っている。怒る時は毎回仕事でのことだと振り返って思う。

基本的に自分が仕事でミスすることが多い分なんでも自分が悪いと思うようにしている。

ただしそこにストレスはちゃんと溜まっている。いつもならちょっと謝ればいいと思って開き直ることができるが、我慢していた分どこからかなんで自分がこんなに我慢しなきゃ行けないんだと思う。そう思うともう無理なのかもしれない。再び信用し直す度量を持ち合わせていない。器が小さいし、キャパも小さい自分には一度信用を落とした状態で戻すことは極めて難しい。

 

何かのきっかけでカチッとスイッチが切り替わったかのような性格になったのはいつからだろう。これは心の余裕が持てなくなったことも意味する。いろんな感情を加味して現状のまま維持することは難しいとは思ってなかったが、怒っている時は、よくまあ耐えられたものだと思う。複雑に考えて曖昧なグレーを選ぶのは簡単に見えて難しかったんだなとこの時ばかりは思う。

怒ってる時に白黒つけることは、実際の色を分けるというより近い方に塗りつぶす、もしくはほとんど全て黒く塗りつぶすことを余裕のない時に選んでしまうのであろう。正当な判断とは到底思えない。

 

それも根本的には面倒くさがりな性格が関係していて、怒られたり指摘される時には深く考えずに従うのが通例になっているから、その場での対応に横着した結果「自分はこんなに我慢してるのに」と言った具合に変換されるのであろう。相手にとっては自分の怒りや不満は見えにくいのではないかと思う。

 

仕事関係で仲が拗れるのはいつもこのパターンになる。比較的最初は信用している人をある一線を超えると人間性に呆れるようになり、「あの人はこうだから」と思うようにする。

その後にもう一つの一線を超えると相手の全てを受け入れたくなくなる。ほとんどの他人が自分の力では話せばわかってくれるとは思えないし、もしこちら側からの話を聞き入れることがあったとしても一時的なものとしか思えないのでそこから関係を修復することはない。

自分が思う一度落ちた他人のイメージがいいイメージに変わることはほとんどない。「根はいいやつ」なんて言葉を信用していない。

 

こんな起こり方をする奴は自分でも扱いにくい奴だと思う。相手にしたくない人間であることは自分でもわかる。ただこれが現段階では自分自身を守るベストの方法にはなっている。

潜在的に「人に嫌われないように」「面倒なことにならないように」というのが行動の元となっているが、この根本が変わらないと人間関係でのトラブルを回避する術は無いと思う。

ただ自分がそこまでできる人間なのか、そこまでする事はあるのかと自問自答の末変わらずにいる。

 

またうまくいかない話

自分の場合うまくいかなくなるとここに書きたくなる。やり場のない鬱憤を晴らすにはいかないけど、記録することで何もしてないよりかはいいかと、心が軽くなることを願って書く。

今している仕事が向いてないと思うことが多くなり、仕事仲間には言えないような低レベルな悩みな気がしてどこにも話せずにいる。

前の投稿から時間が空いたのは、そんな心の余裕のなさをリアルで発散することができたからであり、ある程度までの他人には自分の込み入った悩み聞いてもらうのはとてもじゃないけど申し訳ない気持ちが勝って言い出せない。

人に迷惑かけないように、嫌われないように生きてきたが故の生きにくさが、誰かに話してスッキリしたい気持ちの邪魔をする。

 

要するに本当の相談は自分の抱えてる悩みの大きさを共有するようで、仕事仲間や友達だけでなく、親友と呼べるような仲でもいうのは憚れる。だから昔からある占いや水商売、ネットでの質問サイト、SNSを駆使して何か対価を払う関係に人は相談するというシステムがあるんだと思った。

しかしそんな話を聞いてくれる手段にも手を出せないくらい消極的な自分には、そんなものを利用するという考えもなかった。抱えた問題が時とともに沈んでいくのを待つだけ。

 

そうなると極端に話すことがなくなる。

どうでもいい世間話をするのも馬鹿らしくなるし、かと言って真面目な悩みも前述のようにいうことができない。本当に必要な情報と相手の強引な会話の入り口からしかかなさきっかけがない。よくないことはわかるけど直すこともできない性質的なものであることは確かである。

そんな自分は本当に話しかけられることが少ないし、話しかけられてもうまく返せない。

その繰り返しを重ねて今のよくない自分が宙に浮いてる状態にある。

こういう時は毎回せっせと環境を変えてきた。逃げぐせ、リセットぐせがついてしまった。今は踏ん張りたくない気持ちでいる。もっと自分にふさわしい場所があると思っている。そして探している。

本音の話

どうしても自分をさらけ出すことが出来ないでいる。社会に出ると同時に自分と似たような境遇の他人に出会うことが少なくなったようで、本音で話すことに理解されない怖さがある。

 

学生時代とは立場や年齢だけでなく、知識量や金銭感覚が自分と比較して何十倍もの差が開いていることに気づき、単なる思想の違いでは太刀打ちできないと思う日々にいる。

それがこれまでの自分の人生における環境の違いなのか、はたまた年齢上の人なら経験や世代のギャップなのか、今着いている仕事の業界の傾向なのかはっきりした分析結果は出ないが、自分の性格上色々と言いやすいく、説教しやすい人間だということは社会に出てから痛感している。

 

説教されてるときはどうしていいのかもわからないし、何を言えばこれが早く終わるかということばかり考えている。言われていることに関して間違っているとはあまり感じないが、自分に当てはまることとは思わないし、その人の言う通りにして長い間どこか半信半疑のまま言われたことに突き進む度量を持ち合わせていない。

そんな態度が話を聞いているときにも顔に出ているのであろうし、次会ったときにもまだわからないのかと思ってしまうのだろう。

完全にドツボにハマっている。

 

多分普通の人なら期待に応えられるように努力して壁を乗り越えていくのだろうが、自分はその努力に対して結果が伴わない。まず努力をやり切れた試しもない。不器用でダラしないことに皮肉めいた思想が加わって、最後まで一人でやり遂げる前にリタイアする。

そんな経験ばかり頭に残って自信をなくす。そんな負のフィードバックを繰り返した結果が自分をさらけ出すことのできない人間になってしまった。

だからといって誰とも喋らないような人間ではない。見えにくいバリアを張った状態でコミュニケーションを取るという手段に行き着いた。話していても本当の自分の核に触れるような言動をなるべくしないようにしてしまってる。自分の趣味嗜好、思想、価値観については時には思っていないような嘘をついてお茶を濁す。それは本当の自分を否定されることが何よりのストレスだからであり、そのストレスは精神的にも深く傷を作り後に残る。

だからこそ、裏と表じゃないけれどもう1人の打たれるための自分を作って、そこに他人からの攻撃を防ぐ盾のようにしている。元々意識して作り上げたものではないからこれに関してはどうしようも無い。お得意の時間とタイミングが来るのを待つばかりである。

 

そして限りなく本音に近いことを話す存在も必要ではある。自分の思想を否定されないだけでは満足できない自分もいる。親友が何人とかではなく、自分の本音をぶつけていい度合いを順位付けや性質で区別して肯定の成分を入れるようにしている。ただまだその数は少ないと思うし、全てをぶつけられる人はいないしこれからも出ない可能性の方が高いと思う。

もし限りなく全てをぶつけられる存在がいたとしたら、その人がパートナーになってくれることが近くて大きな目標である

モノの話

休みが長いと昔のことを思い出す。

自分の生い立ちを振り返ることで今後のことを考える材料にしようと頭ではしているのだろう。

幼少期何をして過ごしていたのか、何をしている時が好きだったのか、親からはどんなことを言われてきたかを思い出す。

 

指して裕福ではなかったが、心が寂しくならないようにかCDやビデオを買ったり撮り溜めたりして、リビングや親の部屋にコレクションとでも言うようなものは溜まっていた。

しかし自分自身これらを自分で集めたことがなく、確かに漫画やゲームは自分と兄で集めたものはあるが、好きなアーティストのCDやDVDを一人暮らししている部屋には一枚もない。

漫画やゲームも売ったり処分したりで何も残っていない。今残っているのは好きだったアーティストの曲やDVDの映像、観ていたテレビや読んでた漫画の記憶だけである。

自分の親や姉は時間が経っても好きでいられる、もしくは形として取って置きたくなるモノを選んで買ったり貰ったりしていて、今思うと生きるのが上手い証の一つだと思う。嫌になって手放すモノが多ければ多いほど、全部ではないが過去の自分を否定することでもある。

 

あるモノを手放すことが経験といえばそれまでだが、モノとして残ること以上に小さい頃からやってきたことへの肯定は、自分自身より他人からの評価によって何倍にも価値は上がる。自分自身で肯定するとは訳が違う、昔の自分を他人が認めてくれることへの幸福感はまた違うだろう。

 

ここ数年はミニマリズムとでも言うように、所有することへの維持コストや時間的コストを考え、それに見合うだけの価値があるかと合理的に考えていた。それ自体が自分のためになるかを自分では合理的だと思っていたが、いろんなことに対して見境なく否定し、長期的な幸福に対して見通しがついてなかったかもしれない。

所有物には自分自身のその時の感情を思い出すきっかけを与える。感情を思い出すことは人生を見直すきっかけになり得る。いまではサブスクリプトなるサービスやレンタルで趣味を満たすことができるが、それとは比にならないくらいのきっかけをくれるのが、アナログなモノなのではないかと思う。写真を残してこなかったことも悔やまれる。

 

何ヶ月も暇な時間をスマホとパソコンのみで過ごすことができる人間であることに、少し恥ずかしいと感じる自分だから、今後は写真でも趣味のものでも残しておこうと思う。