負け惜しみの話
鈍感という言葉があっているのであろうか、動きや思考が鈍い。自分が理想にしている速度とは程遠く手足は遅れて出てくるし、言葉はすぐには出てこない。
その反動で自分自身に速さを求めるようになった。字を書くのは汚いが早いし、飲み食いは人の倍くらい早い。せっかちで速さを求めるが故に正確さを失うような結果になることが多い。
最近では吃音症に関するものをよく目にする。言葉に詰まることに悩んでいてもラップならスラスラ言葉が出てくる。だから吃音症についてをラップに乗せて活動していることが取り上げられたのだが、中学生の頃の私は同じようなことに悩んでいた。
手足などの自分の体が思ったように動かないことよりかは、言葉が思ったように出てこないことの方がこの先の人生深刻な問題ではないかと当時は思っていた。
中学の終わりの頃に国語の授業で吃音症に悩む文章を取り扱った。筆者が若かった頃に言葉に詰まる体験を綴った文章はその時の自分にダイレクトに突き刺さった。当時の私は他人から見て吃音に悩んでいることに心当たりがなかったかもしれないが、私はその症状に私自身を当てはめた。
私は吃音症なのか確証がないままどこか自分を変えたくて、行き着いた先は私も音楽だった。言葉が出ない自分に音楽を通して自信を持つことが言葉の詰まりをなくす一つの方法だったのかもしれない。
そこからは言葉について考えることが多くなった。人の話し方や言葉の選択を音楽やテレビ、ラジオなのどのエンタメの情報を通して自分を普通の人のように話せるように精進した。でもまだ私自身は満足していない。
話が上手な人は際限なく話が上手くなり、到底自分には並ぶことができないだろうと思うようになってきた。すぐに思考してその結果をすぐに言葉にできる才能には立ち向かえないと断言できる。そう考えた上で私はその競争の後ろを走っているだけではいけないと思った。自分には他のところでその人を超えてやるということにした。
思考に時間がかかって言葉に出すのが遅くなるならそれでもいい。ただ前に言った人とは同じことを思うなと考えることにした。その先をいったり優れた回答をすることに尽力することにした。
これは言わば「負け惜しみ」である。何年間も同じコースで走っていた結果にたどり着いた負けであり、勝つことを模索した結果路線変更であり差別化である。
今後も負けを惜しんで精進していきたい。