籠の中のジョニー

若輩者のプロフィールのような文章

好きと勿体無いの話

時間が勿体無いと思うことが人より多い思う。

単に無駄な時間を過ごしているという感覚よりは、もっと有効に使わなければという合理性の追求を怠りたく無いだけなのかもしれない。極端に嫌なことに時間を使いなく無いだけではなく、好きなことでもコストに見合わなければ切り捨ててしまう性格なのかもれない。

それ故に趣味であったりがコロコロ変わり、ずっと好きなもののいうのは極めて少ない。嫌いになるというより、興味がなくなる。

 


その根底にある感情は、時間が勿体無いという感情にほとんど支配されている。「こんなことは将来に繋がらない。」「これを誰と共有できるだろうか。」と考えているうちに切る捨てる流れになる。

私自身を比較的多趣味で、いろいろなことに関心があるとは思うが、突き抜けて語れるものは数少ない。器用貧乏とはこんなことを言うんだとも思う。

 


何かに一時的に夢中になっても周りに合わせて他のことに興味を持つことを繰り返して生きてきた。逆に言えば、多少興味がなくても話を合わせるために趣味にしたものさえある。それはコストに見合っていて他人と共有しやすいものであったり、根本的に憧れの人が好きなものを追いかけて行くようなことである。こんなこと誰にだってあるとは思うが、私自身その判断はものすごく合理的に行われていると思う。そんなことはあまり勿体無いとは思わない。

 


「好きだからできる。」「嫌いだからできない。」が通用しない。しかし半分仕事のような感じでやっていることはどこかで躓く。好きこそ物の上手なれである。どこか抜きん出ないところがあったり、習得までの時間がかかることがある。そういったことに気づくとまた原点に立ち返り「勿体無い」と思う。故にまた違う趣味を探す。

 


こういったことを繰り返し合理的でかつ好きで他人より出来ることが趣味として残っていく。本当に限られた範囲でしか好きで続くものが見つからない。

自分自身好きなものや趣味は勿体無いと言う感情により本当の意味で楽しめていることはないかもしれない。