籠の中のジョニー

若輩者のプロフィールのような文章

満足しない話

最近ダイエットまではいかないが、意識して食事の量を減らしてる。仕事終わりに食べることをやめて帰ったら炭酸水を飲んで、寝るまでの間を過ごす。そんな感じの生活を約2ヶ月続けて少し痩せた感じがするが、毎日必ずするのではなく、何日かに一回は夜もご飯を食べてしまうこともある。

 

ダイエットは大学2年生の時に当時から流行っていた糖質制限をしていた。糖質の計算を逐一おこなった末にピーク時から20キロ近く痩せた過去がある。ただ時が経つにつれピーク時とはいかないものの、自分の慣れ親しんだ体重に戻っていった。糖質制限は簡単に落ちるダイエット法であり、やめるとちゃんとリバウンドするダイエット法だと気付いていたが、それまでの食生活を変えるほどの意欲は最近までなかった。

 

今現在、体力のある仕事をしていることで、食事と体力について考えると、少し食べる量を減らすと調子が出ることに気づき、それに対してのストレスもほとんど感じなくなっていたので、実行している。ストレスどころか逆に計画的ではない突発的な衝動による食事をしてしまった時の満足感に比例して、罪悪感もあることに最近気づいた。それどころか罪悪感が満足感を上回ることが多々ある。

それは単純にいっときの満足感1に対して、減量という観点からと金銭的な観点からくるマイナス点が2以上になる。

 

こんな満足という感情をまともに受けることができない自分自身を他人は不幸に感じるかもしれない。実際、大学時代のダイエットでもこういった状態になることは多々あって、友人に話しても、理屈はわかっても共感してもらうことは少なかった。ただこういった状態の時は自分自身行動的になることができる時期でもあると思っている。食事をとるという簡単な欲求を満たす行為だけでは飽き足らない状態を自分自身は決して悪い状態だとは思わず、高度な欲求を満たすことに邁進するメンタルができてると思っている。

 

ダイエットへの意欲がある時は全てがうまく行くような気がする。2、3ヶ月前の状況とは違ってこの満足しない感覚が気持ちいいと感じることができたのは少しの余裕の表れなのかもしれない。

ドカベンの話

巷ではアベンジャーズなるものがたくさんの人々を魅了していると聞くが、私の映画に対するハードルが異常に高すぎるためまだまだ手を出さずにいる。ハリーポッターは最終作を残しているままで、他のシリーズものスターウォーズやらロードオブザリングやら全部観ていない。洋画なんかは映画のハードルが棒高飛びくらいに感じるためおそらくこれから先も観ないであろう。

 

ただ話を合わせることに関しての意欲は人一倍あるため、話題のものの基本情報を調べることには余念がない。アベンジャーズは聞くところによると、複数のマーベルの映画のキャラクターからなる作品であることを知った。

知った時に自分の頭に浮かんだものといえば、幼少期から読んでいた「ドカベン」であった。

 

私とドカベンの出会いは、小学校三年生のときの夏休み。友達と遊ぶ約束などせずに、毎日家の近所に住む幼馴染がうちに来てはゲームや外で野球をして遊んでいた。そんな幼馴染が長期間旅行に行くことになり、携帯で連絡を取り合うような時代でもないので他の友達と前の日に遊ぶことを約束してるわけでもない中でポカンと暇を持て余した。

 

昼間に家で寝て過ごす夏休みで一階で少し涼しかった親の寝室に入ると本棚があった。そこにある本は「美味しんぼ」「クッキングパパ」「島耕作」「柔道部物語」「ゴルゴ13」などおおよそ小学生が読むようなものはなく、小学校に上がる前に引っ越した当初から本があることはわかってはいたが、つまらない部屋だと思っていたが、日々の暇さから「ドカベン」を手にとって読んでみた。その頃から少年野球チームには入ってはいないが野球は好きで、父親がなんとなく野球漫画を読んでいるという意識はあったので、当時から見ても古臭い言葉や言い回しの多いドカベンを意を決して、1巻から読んでみた。

すると言葉遣いの読みにくさに加えて大好きな野球に関することが3巻まで読んでも出てこない。家にあったのは文庫版であり単行本の約1.5倍の厚さがあるにもかかわらず4巻まで出てこないとなると、単行本ではもっと野球にたどり着くのに巻数を要したことになり、当時の漫画のガバガバさに幼いながら面白みを感じた。

 

私が読んでいるのを横目で見ていた年の近い兄も読むようになり、最後まで読み終わったことを父親に話すと、そのドカベンの続きがあることを言われた。たしかに高校野球の3年の夏の大会を残して終わっているのに違和感を感じていた。そこから父親とのドカベンを集める長い旅がゆるくはじまった。

シリーズとして「ドカベン」の他に続きから、「大甲子園」、「プロ野球編」、そして当時連載中だった「スーパースターズ編」の他に、のちに連載が始まる「ドリームトーナメント編」があり、昨年に連載終了し累計205巻まで出たらしい。

父親もお小遣い制で大人買いなんて以ての外のため、近所の古本屋で少しづつ買い足していった。当時はネットで買ったり、在庫の情報もいかなきゃわからない中で最後の方は止むを得ず新品を取り寄せたりして揃えていったが、発売から十数年たったものも多く、多分全部揃うまでに4.5年はかかったと思われる。

 

そんな中で「大甲子園」からは作者の水島新司先生の他の作品から、主人公の山田太郎擁する明訓高校がその他の作品の主人公擁する高校と対戦する夢の対決が実現する。「球道くん」「ダントツ」「一球さん」「野球狂の詩」など流石に水島新司作品をすべて揃えていく気力はなかったが、古本屋で立ち読みしたり、漫画喫茶で全部頭に入れるかのごとく必死になって読んだりしていた。

 

プロ野球編」では、それまでドカベンに出てきた、同じ高校の仲間や対戦相手を12球団に散りばめて現役のプロ野球選手も含めての対決が描かれるのにこれまた興奮した。特に、入団した1995年から2003年にかけての連載により当時現役スター選手との対戦が細かく描かれてる。

 

「スーパースターズ編」では、当時の現実でもあった、「球団再編問題」と主人公たちのFA権取得によりパ・リーグに2球団増やすことで、主人公山田太郎擁する明訓高校のメンバーとそれ以外のチームを分けてペナントレースを描く作品となっている。それまでは各球団のドカベンのキャラクター+現役プロ野球選手のチーム対山田太郎の西武の話が主だったが、完全にドカベンのキャラクターのチーム対純正のプロ球団(たまにプロ野球編で途中から出てきたキャラクターも残っている)の話になっている。

 

「ドリームトーナメント編」では、「スーパースターズ編」でのパ・リーグ8、セ・リーグ6のところセ・リーグに2球団足して、セパ16球団の中で、ドリームトーナメントを開催するというコンセプトで連載がはじまった。

しかし私自身が高校大学と他のことに時間を費やしており、10巻までで単行本を買うことをしなくなってしまった。とても面白いだろうという作品であったが、トーナメント終了と同時に終わりが見えてしまったドカベンに一抹の寂しさから意識が遠のいていった。

 

昨年の連載終了のニュースを聞いて「やっぱりなと」いう気持ちと、作者の水島新司先生に「お疲れ様でした」という感想でいっぱいであった。

そして連載終了を聞いてまた読みたくなった頃に焦らずに読んでいこうと思った。

ドカベンは、観たことはないがアベンジャーズさながらたくさんのキャラクター水島新司先生の他の作品から集結させ、それぞれの物語を持って主人公山田太郎に挑む、もしくは一緒に戦うといった、野球を通して46年の歴史の分の深みのある作品であることは間違いない。

同世代でこの話をできる人は少ないが、より多くの人に素晴らしさを伝えたいと思いをアベンジャーズで思い出した次第である。

急に書きたくなった話

ブログを書くことが嫌になって約3ヶ月経って急に書きたくなった。

 

嫌になったのは大した理由ではなく、ブログというものにハードルを感じてしまったからである。

記事自体の完成度やブログの集客性などをいわゆるプロブロガーみたいな人と比べていかに稚拙な文章を自分が書いているかを思うと急に切なくなってしまった。

自分自身の日記程度で始めたのにもかかわらず、他と比べる癖がある自分に嫌気がさした原因を断とうとした。求職期間中で考える時間が多いせいで続けてたことの必要性を考えて、歪んだものの見方で間違った答えを出してやめていくことが多々ある。

 

3ヶ月空いて現在、充実しているかというとままだまだではあるが、少なくとも働いてある程度の拘束時間がある故に余計なことを考え無くなって余裕が出てきた。

余裕が出てきたときにふと自分の書いた文章を読むと、その時の感情が当事者なので当然100%伝わってきて、思い出すとなんでか勇気をもらった。

自分以外にはなんら響かない文章かもしれないが、そこには何か変わろうともがいている自分が見える。そんな想像をしてるとなんだか無性に書きたくなってきた。書くというよりか、何か残したくなった。

 

昔から写真や映像を残しておいたり、過去を振り返ったりすることをしてこなかったので、数ヶ月前のことを振り返ることでこんなに感情が動くなんて知らなかった。

これからの人生は残すことにも少し気にかけながら過ごしていこうと思っている。

 

本を読む話

本を読むのは好きだが本好きほど本を読んでいない。

そもそも集中力がない為いっきに読み終えることは稀である。立ち読みして半分もいかないで他の本を読み疲れたら帰るのを何度かしたことがある程度の本の好きさである。

 

基本小説は読まない。いつからだか小説に対して一生読まなくてもいいさえ思えるようになった。フィクションではなくてリアルの情報かつその人の心情が現れるような本を好んで立ち読みする。基本ミーハーだから時代の先端をいくインフルエンサーが書いたものとかに目がいく。それが有益な情報だと思い込んでいる。

 

活字を読むのは多分苦手だと思う。昔から本を読み終わるスピードが遅かったと思うし、それが嫌で本自体から遠ざかった時期もあった。実際大学時代の前半は一冊足りとも読み終えていないと思う。

 

本を読むきっかけになったものとしては、大学のゼミのような気がする。当時ドラッカーに関する本を読み込んでレジュメを作成していたことが楽しくてその根元が本からのインプットによるものだとわかった。どれだけその本の中での自分に響く文章を見つけられるかが本を読む上での一つのテーマだったし、響かないだろうと思う本は最初の10ページまでですぐ嫌になりやめてしまう。

 

知識が武器になるときはいつかくると思って本からの情報を溜め込んでいるが、一向にアウトプットができてない。アウトプットできてないことはインプットが無駄になる為1番勿体無いことをしているとはわかっているけれど、本から情報を仕入れることでの安心感を求めて本を読んでいるだけに近いので当分はそれが続くんだろうなと思う。

ストレスの話

自分がストレスに感じることが何かを間違えていた。

隣の芝生は青いとはよく言ったもので、自分に無いものは良く見えるのはこれまでの人生、身をもって知っていった気がする。

その類似するものとして自分が抱えてるものを他人が抱えていない時、自分自身はかなりの重荷を抱えていると錯覚する。

 

ないものねだりではなく、有るもの拒みとでもいうのかそういった似ている。しかし調べてみると少し違う類義語のような関係の言葉がないことには少し驚いた。万人にあるような感情ではあると思うが無いものより抱えているものの方が人によっては大きなストレスになるとも考えられる。

 

私自身でいうとなにか仕事や作業を抱えすぎるとストレスを感じる類の人間であり、プレッシャーや緊張感に弱い。非常に気の小さい人間である為に、抱え込んだものに対して自身が対処できるかという不安に駆られる。

抱えたものは一つ一つ地道に処理していくほか方法はないだが、ストレスやプレッシャーによるミスは多くなるばかりである。

 

これに対して対処方法があれば教えてほしいものだが、ひとつ考えている最中に疑問に思ったのは「ないものねだり」に対する反対語はないのかと言うことである。

これも調べてみると明確に反対語に値するものはないそうではあるが、そういったニュアンスの言葉があるみたいだ。

 

「知足」ちそくと読み、「足るを知る」とも書かれ、中国の春秋戦国時代思想書老子』に出てくる一節で、「知足者富(足るを知る者は富む)」と説かれているそう。

身の丈にあった満足を知ることで心が落ち着くと言う解釈をするとしっくりくると思い、「ないものねだり」に対している言葉でもあると思う。

 

もっていないこと、抱え込んでいることをストレスと感じるよりか、今置かれている状況の満足を知ることでストレスを解消することができたらと思う。

恋の話

こんな私でも恋に落ちることが多い。

今現在私自身をなんの価値のない人間だと思っているので恋愛なんて考える余地もないが、小さい頃から惚れっぽい性格である。

 

惚れっぽいのはコンプレックスだらけの私に興味を示す異性が少ないが原因であると考える。人から好かれているという体験が少ないので少しでも興味を示しているということを察知すると自分に気があるのではないかと錯覚する。

実際は錯覚である為何も意味のない接し方であることが大半であり、それに対して私自身は厳密に分析して判断することに時間を要する。

その分析をする行為自体が楽しいと思えるから自分でも気持ち悪いと思う。

 

分析というか葛藤というかせめぎ合いというか、とにかく「私に好意を寄せているか?」を考えることが好きな私は、それ以上のことに対しての経験値があまりにも少ない為、惚れやすい性格ではあるが告白などの直接的な分析の答えを要求することをあまりしてきていない。

自分に自身が持てない以上少ない情報、一定期間がない限り告白まで漕ぎ着けない。そう過ごしている間に他のことに目がいってしまう。

 

こう書いている間に恥ずかしくなってしまったので細かいところはまた今度にしたいと思う。

飯の話

腹減ってないのに食べる。

生きてく上で食べることは必要不可欠だが、働いてた時より食べることへの執着が湧いてきて少し困っている。

求職期間中は食べることを考える時間が長くなったと感じる。忙しくしていた時は食べるものを考える時間が惜しいというまでいかないにしろ、なに食べてもいいと思っていた。

 

今は食事も何かしらの暇つぶしのように感じる。自宅で作るならまず材料を買いにいく。私自身でいうと節約を意識する為値段と満足度の交渉が買い物の段階で始まる。今は生きるので精一杯なので栄養素などは後回しにグラム当たりの値段で考えることが多くなった。

そうこうしているとカゴにもある程度の商品が入りレジに行き購入する。なにを食べるかはここら辺で決まり家に帰り調理が始まる。

ワンルームのアパートで一口のコンロを使って料理をするのは少し頭を使う。何品か作るのであれば作る順番にも気を使い調理する。

 

自炊ともなるとこれくらい時間と頭を使うとなると1日の最大行事が料理になることも少なくない。飯ぐらい執着できることで飯を食っていけるようになるにはあとどれくらいでかかるだろうか?